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中央大学法修会研究室 創立70周年記念  

顧問からのメッセージ

法修会顧問の記  角田 邦重(名誉顧問)

 

1,法修会顧問になった経緯
 副会長の宮﨑敦彦さんから法修会創立70周年を迎えるにあたって寄稿を依頼されて筆を執っています。OBOGの声を掲載するというアイデアに感心しています。
 私が法修会の顧問になったのは、私の師匠であった横井芳弘先生から定年退職を迎えるにあたって、後任を引き受けてくれないかと頼まれたからでした。同様に、私も定年を迎えた2011年に、現顧問の工藤達朗先生にバトンを渡すまで17年間顧問を務めたことになります。
 お引き受けするにあたっては、それまで法修会とはまったくかかわりがなかったばかりか、玉成会の会長をしていたこともあり(玉成会主催の答案練習会で腕を磨いた縁からでした)、一度はお断わりしたのですが、玉成会に相談したら構いませんよということになり引き受けた次第です。

2, 伝わってくる熱い思い
 私の本籍は、山下裕辞さんの創設の記にも出てくる夜間部学生の星友会研究室です。勤労学生として働きながら司法試験の勉強をして在学中に合格したのは幸いでした。
そうでなければ、生活に余裕があったわけではなくどこか別の世界に途を求めていたはずです。
 法修会の由来は詳しくは知りませんでしたが、山下さんの法修会創設の奮闘記を拝見して、胸の熱くなる思いをしました。
 また加毛修会長が活写されている当時の研究室仲間の生活ぶりは、私が星友会で学んでいた当時の室員とまるで生き写しの感があるのに驚いています。一言でいえば、「貧しかったけれど勉強している充実感と漠としてはいるが希望に燃えていた」ということでしょうか。当時の雰囲気が改めて懐かしく想いおこされます。

3,法修会の人たちとのご縁
 顧問に就任した年の総会に広島の冨村和光弁護士から樽酒が届いたのには驚きました。 修習19期の同期生である冨村さんとは、当時小石川にあった寮で生活し紀尾井町の赤坂プリンスホテルの隣にあった司法研修所に都電を利用して通学する仲間の一人でした。 若い人には馴染みがないかもしれませんが、当時は少年ジャンプならぬ「ガロ」という月間漫画雑誌があって、白土三平の「カムイ伝」という長編劇画が連載されていました。誰かが1冊購入すると、みんなで回し読みするわけです。またそれを口実に仲間の部屋に集まっておしゃべりを楽しんだものです。冨村さんとは既知の友人で、法修会の出身ということを知らなかっただけの話でした。 
 もう一人、修習17期の川口春利裁判官のことを付け加えたいと思います。九州出身の私は福岡で実務修習をしたのですが、刑事裁判の指導官が川口裁判官でした。記録を読んで法廷に臨み、判決文の起案をして講評してもらうといった丁寧な指導を受けました。退官した後、郷里の長崎で弁護士になり、長崎観光の目玉である「出島」のすぐ近く(興善町)に事務所を構えておられました。大学の長崎出張の折に事務所を訪ねて、初めて法修会出身であることを聞かされました。すでに顧問をお引き受けしていたので、懐かしさは倍増の感がありました。
 顧問として何かやったかと言われても、司法試験合格者のお祝いを兼ねた総会で顔を会わせ懇談に興じるくらいで、それ以上の役割を演じた記憶はありません。合格したての若い人たちと話をしていて感じたのは、旺盛な向学心とたくましい自立心に満ちた人が多いという実感でした。創設以来の法修会の気風なのだろうと感じていました。小さな研究室だからこそ濃密で切磋琢磨しながら勉強しているうちに将来の生き方や強い覚悟とでも言うべきものが培われるのではないでしょうか。
 印象に残っているのは、私が顧問なりたての頃、すでに浅草で独立して事務所を始めていた畑克海さん、郷里の四国・今治でいきなり事務所を開業した寄居真二郎さん、検事に任官したばかりの桜井香子さんといった若い人たちです。それから15年近く経っていますので、今では働き盛りのベテランの域に入っている方たちです。

4,法修会で学んだことが生きてくる時代
 裁判手続きに留まらず司法のあらゆる領域にも、AIを使った業務が拡大し、裁判・弁護士業務を問わず、いわばリーガル・イノベーションの動きが急速な広がりを見せています。単に司法試験に合格することが至上命題なのではなく、法曹になってからの新たな業務の拡大や仕事の仕方を絶えず時代の変動に合わせて進化させていかなければこの動きについていくことは出来なくなってしまうでしょう。そのために、法修会で学んだ仲間との付き合いはきっと大きな財産になるはずです。70周年を迎えた法修会のこれからに期待しています。

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