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中央大学法修会研究室 創立70周年記念  

OB・OGの声

中央大学法修会研究室誕生の記  山下 裕辞(1期)
                               (200138日記)

 法修会研究室は、昭和29(1954年)4月に後楽園校舎内で弧々の声をあげて以来、早いもので、すでに47年の歳月が経過した。その間、場所を水道橋校舎内、八王子校舎内と移転したが、司法試験合格者は84名を数え、その歴史と伝統を育みながら、輝かしい実績を誇って今日に至っている。そして、多くのOB,OGの皆さんが法曹界をはじめ社会のあらゆる分野で活躍しておられることは、誠に喜ばしいことであります。
 法修会研究室設立の経過については、総会をはじめいろいろな機会にお話をしてきましたが、時間の都合で、何時も断片的な内容で終わっておりますので、ご要望もあり、この際纏めてみることにしました。

 当時、夜間部の法学部2年の私たち学生有志(多分8名だったと思う。)は、昭和28年の秋頃から、司法試験受験を目指す夜間部学生のための新たな研究室を設立するため、活動を始めた。これらの有志は、前年の入学早々に私が憲法の専任教授であった柳沢義男先生のボイコット運動を起こし、大学の方針であった単独講座制を改めさせて、司法試験委員の佐藤功先生の憲法講座を法学部学生のために並立させた時に、積極的に協カ・活動してくれた同志の一部で、日野哲夫君や今は亡き佐藤貞二君(後に高裁判事)等であった。
 中央大学の当時の研究室は、現在と同じく、学術研究団体連合会に所属する各研究室が主体で、室員募集の対象は昼間部の学生が中心で、夜間部の学生には殆ど門戸が開かれていないように思えた。学力の差が有ったのかもしれない。夜間部の学生は星友会研究室への入室を目指すか、図書館や下宿で一人勉強をして真法会や秀朋会が行っていた答案練習会に参加するなどの方法しかなかったが、生活のために昼間職を持つ学生にとってはいろいろと制約があり、極めて厳しい環境であった。我々は夜間と休日に時間の制約を受けずに、友人たちと一緒に勉強することが出来る“場”が欲しかったのである。
 我々は新しい研究室の設立運動を始めたものの、誰一人研究室に在籍した経験が有るわけではなく、助言やアドバイスをしてくれる先輩もいなかった。全くの無手勝流である。そこで、まず学研連の各研究室を訪ねて、その実態や運営方法等について教えを請い、併せて研究室新設についての指導と協力をお願いして回った。しかし、室員に聞いても詳しい事情は殆ど解らず、協力の姿勢もみられなかった。
 逆に、“新しい研究室を作ることは難しい。時間と労力そして財政的にも大変な負担が必要だ。そんなことをするよりも既存の研究室に入室するための勉強をしたほうが、君たちの為になり、試験合格の早道だよ。研究室の創設者で合格者はいないともきいている。そんな運動は止めたほうがいい”などといわれる始末であった。しかし、我々は反って闘志を燃やし、我々の手で是が非でも研究室を作ろうと、決意を新たにしたのである。

 そこで我々は升本喜兵衛法学部長を自宅に訪ねて、ご教示とご指導をお願いした。先生は中桜会研究室の会長であられたが、我々が前年柳沢教授のボイコット運動を起こしたときの交渉相手でもあった。その時は、最初のころは“一部左翼学生の扇動”とみなされて退学処分も辞さずとの強硬な態度であったが、交渉を重ねるうちに段々と我々の真摯な態度と学生を思う気持ちを理解していただき、最終的には法学部内の強い反対意見を抑えて、我々が提案した諸条件をことごとく受け入れて、円満解決のために大変なご尽力をたまわった方である。その時以来、我々は升本先生を尊敬し慕っていたが、研究室の新設についても先生を頼るしか方法はないと考えたのである。
 升本先生は、初めは “君たちだけで研究室を作ることは無理だ。大学の現状では協力することも難しい。諦めるように”といわれた。
 我々はこれに怯むことなく、度々要望を重ねていたところ、12月になって、“君たちの気持ちと熱意は解った。なんとか協力しよう。しかし、大学の現状では全く場所がない。どこか適当な場所が見つかるまで待つように”との意向が示された。
 我々は先生のご尽力に感謝を申し上げると共に、“我々も場所を探してみるので、あったときには是非認めていただきたい”とお願いした。

 我々は、冬休期間を利用して、研究室に使える場所はないかと大学内を隈なく探し回った。どこにも見当たらない。升本先生のいわれるとうりであった。暫くは断念せざるを得ないと思ったが、もう一度探してみることにした。そして、前回探さなかった図書館にいってみた。図書館は正門の突き当たりにあったが、三階建てで一階は閲覧室、書庫、事務室で、二階と三階は教授、助教授の研究室であった。三階からさらに階段があり“立ち入り禁止”の柵が置かれていた。柵を動かして上がってみると屋上に通じており、出口のドアの前に四坪ぐらいの踊り場があり、薄暗い裸電灯が点っていた。 この場所を使うしかないと考えた我々は、早速部屋を設置するための準備に取りかかった。階段の手摺の長さと天井までの高さを測り、教室にある長机と長椅子の配置と机上に置く電気スタンドの配線計画を考え、実行日を115日の成人の日と決めた。

 115日は快晴で、我々と研究室の前途を祝福してくれているように思えた。午前9時に8名全員が正門前に集合し、小川町の材木店に出かけた。そこで垂木、ベニヤ板、釘などを買い、大工道具を借りて壁板を作って学校まで運んだ早速階段の手摺の上にはめ込んで、即席の部屋を完成させた。次に机と椅子を調達するために教室へと向かった。いつもドアが開いていると思っていた教室に鍵が掛かっていて中に入れない。我々にとっては全く計算外のことであった。一階から四階まで探して諦めかけたころ、ラッキーなことに鍵が掛かってないー教室を発見した。大喜びで長机と長椅子それぞれ五脚を部屋に運びいれた。そして、あらかじめ頼んでおいた友人に電気コードの配線工事をしてもらった。かくて研究室が出来上がったので、今まで“立ち入り禁止’'の柵があったところに“修法会研究室”の看板をぶら下げたのである。これらの作業に丸一日かかったが、その間なんの妨害もなかった。たぶん大学側は我々の行動に全く気がつかなかったのだろうと思われる。‘‘修法会’'の名前は私が提案して皆の承諾を得たもので、看板の文字は誰にお願いしたか記憶にない。
 
いずれにしても、僅か一日にして、我々の念願であった“夜間部学生による、夜間部学生のための司法試験受験研究室’'が出来上がった。

 翌16日朝、時間の都合がついた学生だけで升本先生を法学部長室に訪ね、‘‘図書館の屋上への階段のうえに適当な場所があったので、約束どうり、我々の研究室として使わせていただきます。’'と報告した。先生はびっくりされて、‘‘君たちは無茶をするなあ。あそこはそんな場所ではない。駄目だよ。”と、おっしやったが、我々は、それを聞き流して、部長室を辞去した。しかしながら、その日の夕刻に研究室に行ってみると、すでに机、椅子はなく、研究室の看板の上に “直ちに撤去せよ管財課長"の張り紙があった。すぐに学部長室に抗議に行くと、升本先生から ‘‘助教授や助手達が騒いでいる。我々の研究室の頭上を不法占拠した、とんでもない学生たちがいる。直ちに撤去させ、厳重に処分をせよとの抗議がきている。また、管財課からも、図書館の階段を学生が不法占拠し、教室から机、椅子を無断で運び込んでいた。直ちに撤去させる。、、との報告がきている。直ちに撤去しなさい。” といわれた。
 我々は“場所があったので、学部長との約束を実行したまでのことで、不法占拠をしたのではない。撤退する意志は毛頭ない。学内の騒ぎは学部長の責任で鎮めてもらいたい。”と主張した。
 学部長は‘‘机や椅子は教室から無断で持ち出しているそうじゃないか。とんでもないことだ。助教授や助手達を敵に回すのは、将来的にもよくない。今回はおとなしく撤去しなさい。場所については私も考えるので、任してもらいたい。”と話された。

 我々は不満であったが、唯一の理解者である升本先生を困らせるのも得策ではない。一旦、実績は残したので、いずれなんらかの役には立つだろうと考え、今後の対応を見守ることにして、ひとまず、名誉ある撤退をすることにした。そして、直ちに壁面や電気コードを撤去して、旧に復した。かくて、修法会研究室は僅か二日にして幻に終わったのである。

 その後おとなしくしていたところ、4月の新学期にはいってすぐ、管財課から‘‘文学部や通信教育学部のある後楽園校舎内に、狭いが場所を用意したので、研究室として使用してよい。”との連絡があった。現地に行ってみると、通信教育学部の物品倉庫になっている木造平屋の建物の一部で、12坪ぐらいの広さであった。我々は大喜びしたが、後で半分はすでに実績のある秀朋会研究室(顧問:吉田常次郎教授、会長:小林弁護士。数年前に真法会研究室から分離独立して、答案練習会を中心に活動していた。)の分とわかり、がっかりした。しかしながら、どんなに狭い部屋であっても、一部の夜間部学生だけの手で、実質的な運動から半年、実力行使からわずか三ヶ月足らずで確保することが出来、大学から研究室として正式に認知されたのである。こんなにも早く出来た研究室は他にはないとのことで、我々の努力もさる事ながら、まさに升本先生の存在とご尽力の賜物にほかならない。

 隣接しあう研究室が“しゅうほうかい’'と“しゅうほうかい”では、如何に字が異なっても混乱するだけである。先輩に敬意を表して、我々は字の配列をかえて“法修会”と名称を改めることにした。あまりにも単純すぎるように思えたが、“修法”の二字にはこれまでの活動の経過がこめられており、我々は簡単に捨て去ることが出来なかった。
 正式の研究室となったので、机、椅子等を無断借用するわけにはいかない。皆で二万円の大金を拠出しあい、港区赤羽橋にあった米軍使用の中古家具類を販売していた古物商で机、椅子それぞれ十三脚等を買い求め、どうにか研究室としての体裁をととのえた。
 升本先生に顧問就任をお願いしたが、中桜会研究室の会長を理由に断られ、中村武教授(労働法)、三野昌治教授(民法)を推薦されたので、両先生に顧問をお願いした。しかし我々としては、升本先生抜きで法修会研究室はありえないと考え、先生の正式の承諾をえないままに、三先生を顧問として推戴することにした。後日の新入室員を含めた記念写真撮影のときには快くご臨席を賜っており、我々の気持ちを察して暗黙の諒解をしておられたのではなかろうかと、勝手に理解しているところである。

 さて、研究室の形も整い、机も十三人分準備したので、夜間部学生を対象に室員を募集することになった。研究室の運営費を受験料で確保する狙いもあった。試験科目は憲法、民法、刑法と面接であった。憲法は佐藤功先生に出題をお願いし、採点は先生の指示で助手の清水睦先生(のち教授、法学部長。)に頼んだ。民法の出題と採点は三野先生、刑法は中村先生にお願いした。室員募集の案内を校庭の掲示板にはり、ビラを夜間部学生に配った。入室希望者は一週間で約百五十名に達した。如何に多くの夜間部学生が司法試験を目指し、研究室への入室を希望しているかその現実を目のあたりにして、我々の努力は決して無駄ではなかったと、改めて認識したものである。併せて相当の運営費を確保することも出来た。そのとき、見事難関を突破されて入室されたのが伊藤平信(弁護士)、大井恭二(検事)、望月万里雄、青山佑次、石川光弘の諸氏であった。昭和29年は、秋にも第二回目の入室試験を行い、岩石行二(弁護士。故人。)、長尾仁司(弁護士、故人)の諸氏らが入室された。
 このようにして、部屋と設備は全く不十分であり、指導してくれる先輩は一人もいなかったが、目的を同じくする仲間達が自由に、しかもお互いに協力しながら、勉強し、努力し、かつ遊ぶ気風に満ちた“法修会研究室”が誕生し、育っていったのである。
 その後、昼間部学生の入室希望も多く、昼間の研究室利用のことも考慮して、夜間部学生以外にも対象者を拡大して、今日にいたっている。
 いま、法修会研究室誕生の頃を想い、現在を考えると、直接設立に関わった私としては感無量の想いが去来するが、これも、ひとえに升本先生をはじめお世話になった多くの関係者のご尽力とご協力の賜物であると、深く感謝と敬意を申し上げているところである。
 ところでいま、法修会研究室は中央大学の新たな構想によって、中央大学・多摩地区オフ・キャンパス施設への移転問題をかかえ、多額の費用負担をもとめられている。先日来、OB会役員会を数回にわたって開き、種々協議した結果、“我々の若き日々の学びの拠点であった法修会研究室を末永く残し、さらに将来有為な後輩達を育む場を、より環境と設備の整った施設内に確保して、限りなく発展させることが、我々OBの責務である。”との考えで一致し、移転の方針を決めたところである。そして、この旨を大学側に伝え、場所の確保を要請するとともに、募金活動をおこなうことにいたしました。

 つきましては
、諸事情をご賢察の上、ぜひとも各位のご理解と積極的なご協力を、心からお願い申し上げる次第であります。  


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