1 学生時代
私は、1965年(昭和40年)中央大学法学部に入学した。
この当時、司法試験合格者のうち約3割が中大法科の出身者であった。
私も、中大法科に憧れて入学したが、同じクラスの仲間の有志は入学早々に司法試験の勉強を開始し、約10名くらいが1年生から著名な研究室に入室した。
私が、中大法学部を志望したのは、高校時代の大先輩である下村康正先生のお話をお聞きし中大法学部に入学したいと思ったからです。
私は、将来司法試験を受験するとの気持ちがあった。
しかし、入学早々、大学の雰囲気になじめなかった。
大学1年の4月の政治学の授業のとき、小松先生が「これからの4年間は最も重要な時期である。私の授業が意味がないと思うなら欠席しても構わない。しかし、その時間を君たちが大切なものであると思うことに情熱を傾けてほしい。」と話されました。
私にとって4年間の自由な時間は新鮮な感覚であった。
私は、日本の古い歴史が好きであり、京都・奈良・鎌倉などを散策していた。
そして、史蹟研究会というサークルに入会した。
この年度のサークルの方針は、白門祭で東大寺文化をテーマとした展示会を開催することだった。
そして、8月に私の最も大好きな奈良の薬師寺で合宿をした。
早朝、空に輝く美しい星の下、広い境内を竹のほうきで掃除し、寺院の廊下の拭き掃除をし、高田好胤事務総長と一緒に般若心経を唱え、講話をお聞きし、橋本凝胤管長からの講話に接することもできた。
私の印象に残っているのは、橋本管長から世情、女子大生忘国論(女子大生が急増した時期)が指摘されているが、男子学生の大半は学問に専念せず、まともな教育を受ける気持ちがなくバイトをしたり遊びほうけているのが現状だから、実体は男子学生忘国論と言える。
今考えなければならないのは女子大生忘国論ではなく大学での教育の質の問題であると指摘した。
高田事務総長は、日本は台風・地震などで大災害が多いが、薬師寺東塔はこれらの災害に耐えてきた。
その理由は、薬師寺東塔が古来の日本建築の技術の粋を集めたものであり、現在でも多くの建築家が視察に来て、建築水準を高く評価している。
現代の建築技術の水準は高度であるが、500~1000年先のことを考えて建築をしていない。
薬師寺は、多くの人たちの「見えないところの隠れた努力」により1300年以上も健在であるとの講話を拝聴し、このことを私の信念として心掛けるようにした。
私は、合宿のあと、11月の白門祭での東大寺の模型を手作りするため、毎日夕方から早朝まで先輩のアパートで作業をした。
他方、私は、高校時代の仲間と一緒に読書感想会及び中大の夏のセミナーで知り合った仲間(多くの学生は他学部)とも読書感想会を作り、著名な内外の小説を資料として利用し、テーマを決めてお互いの人生観を交換し、青春の楽しい想い出となった。
そして、この間、様々な分野の書物に接し、約数百冊を読破していたため、大学2年間はほとんど授業に出席しませんでした。こんな学生時代を送っているうちにあっという間に2年間が過ぎてしまった。
2 法修会入室
大学3年の4月頃、将来の自分の道を考え、やはり司法試験の道を選択することにした。
この年の8月、私は信州の戸隠高原の民宿に約40日間滞在し、秋季の研究室の入室試験を受験することとした。
私は、同級生であり親友でもある酒井憲郎氏(12期)に相談したところ、法修会では室員を募集しているので少人数で雰囲気の良い研究室であるから、と受験を勧められた。
他の研究室にも合格したが、私は、酒井氏に言われるとおり、法修会に入室した。
私は法修会に3年生の秋に入室したので、それまでは授業もほとんどサボっており、司法試験の勉強もしていなく、新米の学生と同じくらいのひどい学力であった。
そのため、大学3年の期末試験では、刑訴と民訴が赤点であった。
この時点で内心は大学を4年間で卒業することはできないと考えた。
初めて受けた大学4年生のときの司法試験は、あまりにも大きな壁であり、自分の力のなさを知っただけであった。
私にはこのとき初めて司法試験に合格したいという強い思いが出てきた。
択一不合格の翌日から研究室に毎日出席し、論文試験を目指す先輩らの厳しい勉学態度を見ながら、一人寂しく来年の受験勉強を開始した。
私は、研究室に朝一番早く(午前8時頃)出て一番遅く(午後10時頃)まで在室することにし、自宅では一切受験勉強をしないことを決意した。
日曜・祭日を問わず研究室で一日を過ごした。
昼食は、母親の手作り弁当、夜は近くの食堂で済ませ、月に1~2回トンカツ屋で食事をするのが楽しみであった。
大学の卒業試験は、大学紛争のため実施されず、レポート提出となった。
そのため、中央大学を4年間で卒業できたが、卒業式も無く、卒業証書を大学の事務室で受領したとき私は授業料の領収証代わりかなと思い何の感激もしなかった。
そして、大学を卒業した昭和44年5月の択一試験は合格したが、論文試験は実力不足であり、手応えさえなく完敗であった。
私は、受験勉強は法修会の先輩からの指導や、先輩・同僚たちとのゼミ以外は基本書を読み込むことであり、基本書に記載されている本質的な考え方がどういうものかということを意識して勉強していた。
私は、訴訟法が選択制だったので刑訴法を選択し、東大の平野龍一先生の『刑事訴訟法』を基本書としていたが、難解で理解できず、私の頭の中は闇の中というより霧のために何も見えない状態であった。
私は意を決して東大の平野先生の授業を盗聴することとし、半年間平野先生の講義を拝聴し、私の頭の中でもやもやしていた霧が吹き去り、刑訴法を理解することができた。
このことは、他の科目にも影響を及ぼし苦手意識の強かった民法も克服することができた。
なお、弁護士になってから、平成の初期の時代に、当時法務省の最高顧問に就任していた平野龍一先生が、私の麹町時代の小さな事務所を訪れ、弁護士会との対立法案であった監獄法改正の問題について二人だけで協議する時間があり、私の前述の平野先生の授業の盗聴させて頂いたおかげで、司法試験に合格したことをお詫びと感謝の気持ちを伝え、2回目の話し合いの時には、二人で 加賀料理を食べながら会食したことを懐かしく思っています。
私の平野先生のお話から監獄法の改正の重要性に心が動き、日弁連の責任者として監獄法の改正に協力できたことが想い出になっています(監獄法が改正なされる以前に平野先生は亡くなっています)。
3 司法試験合格
私は、1970年(昭和45年)9月に三回目の受験で司法試験に合格した。
この試験の論文試験で、商法の問題が為替手形に関する問題であった。
この問題を見た瞬間もう一年やらなければならないのかと思った。
私は為替手形の勉強は全くやっていなかったからであった。
私は、自分ができない問題なら他の受験生の多くも答案が書けないだろうと思い直し、最低限の成績を取りたいと考え直し、小六法の条文を見ながら不出来な答案を作成した。
だが、他の設問は、私が重点課題として勉強していたので、納得のいく答案が提出できた。
二つ併せてプラスマイナスゼロかなとの感覚であった。
一抹の不安があったが、論文試験に合格でき、口述試験に進んだ。
口述試験は9割くらい合格するとのことであり、大きな失敗をすることもなく、著名な先生方と対面で接する機会があり楽しかった。
印象に残っていたのは、刑法の口述試験であり、私がその日の最終の受験生であった。
主尋問の先生から質問があり、15分くらいで終了した。
ところが陪席の一橋大学の植松正教授から、私の方から質問があると言われ、同先生から人格形成責任についてどう思うか質問され、度々厳しい質問をされながらも自分なりの見解を述べた。
植松先生との面接時間は30~40分くらいであった。
これで終わりましたとの植松先生のお言葉で、私はとてもスッキリした気分でありがとうございましたと礼を言って退室した。
試験場を出て参宮橋の駅のホームで電車を待っていたら、植松先生と目が合い、私は、植松先生に対し先生はどのようなお考えなのですかと質問した。
植松先生は、今論文を書いているので君の意見を聞いてみたなどと説明してくれました。
別れ際に、今度は研修所でお会いしましょうと言われ驚くとともにびっくりしました。
当時、受験生にとって植松先生は神様みたいな存在で、受験雑誌の写真でお顔はよく存じ上げていましたので、当日の口述試験は緊張のしっぱなしでした。
4 法修会の伝統-苦学生-
法修会研究室は、私にとって本当に受験勉強をする最高の場でした。
素晴らしい先輩や一生の友人となった仲間達、様々な想い出がありました。
法修会研究室の伝統は創立当時から苦学生が多いということをお聞きしました。
私にとって、伝説的な人は早出由男先生(11期)です。
早出先生は長野県諏訪市の出身であり、地元の夜間高校を卒業し、中央大学の通信教育を卒業して司法試験を目指し、病院などで働きながら司法試験に合格したというつわものの先生です。
早出先生が弁護士となり、地元で開業することがマスコミにも大きく報道され、弁護士としての評価も極めて高く、ゴルフもシングル級の腕です。
人柄はとても優しく、腰も低く、人格・識見は優れ、私にとっても「あるべき弁護士像」のお手本の人でした。
吉田暉尚先生は、私と法修会同期ですが、昼間に働きながら中央大学二部を卒業後、小学校で警備員等の仕事をしながら司法試験を目指していましたが、法修会に入室したことを契機として、警備員の仕事をやめて司法試験に専念することとし、かつかつの生活で3年間が限度の蓄えがあったと聞きました。
その最後の3年目の年に司法試験に合格しましたが、手持ち金はほとんどなかったと言っていました。
吉田先生は、司法試験合格後、警備員として働いていた小学校に赴き、同校長先生に司法試験に合格したことを報告し、当時とても親切にしてくれた女性教師に会いたい旨相談し、同女性教師と再会し、プロポーズをして結婚しました。
吉田先生は、当時超高層ビルとして名高い霞ヶ関ビルディングの上層階に位置する著名な法律事務所に就職し、その後独立して四谷の法曹ビルで開業しました。
吉田先生の人柄は、誰からも尊敬され、一緒に勉強していても楽しく、受験時代は一言も愚痴は言わず研究室への入室・退室時間について、吉田先生と私のどちらかが入室の一番目で退室の最後の人でした。
でも、吉田先生はすでにご逝去され、私にとってとても悲しく残念でした。
私が法修会で学んだことは、司法試験に合格するノウハウを修得できたことだけでなく、法修会を通して、先輩・同僚・後輩の方々と信頼関係の絆が作られたことです。
5 法修会の先輩らとの絆
⑴ 司法修習時代
私は、司法修習地を京都に志望し、約1年4ヶ月過ごしました。
京都弁護士会には杉島元先生(4期)がいらっしゃり、事務所訪問などを含めて親しくご指導を受けることができました。
川木一正先生(10期)は、自宅が京都で、事務所が大阪でした。
私は川木先生から法修会時代受験勉強をご指導いただき、川木先生に直接御礼する機会があり、弁護士としての心構えについて貴重なご指導を得ました。
東京に後期修習で戻り、研修所の裁判官教官から、裁判官に任官することを熱心に勧められましたが、最終的に弁護士になることを決断し、酒井憲郎先生の紹介で、ボス1人の法律事務所に入所しました。
⑵ 弁護士になってからの親交
私は、松林詔八先生(7期)から、法修会の先輩弁護士(北村哲男先生5期)らと一緒に判例研究会を開催しているので出席してみないかと誘われ、松林先生の事務所で先輩弁護士らから、事前に与えられたテーマを発表する機会を与えられ貴重なご指導を受けました。
終了後の飲み会も楽しみでした。
⑶ 先輩・同僚との業務上の協力
ア 酒井弁護士から浜松市内の著名な企業の幹部が背任(横領)容疑で立件された事件のお手伝いをし、本格的な刑事事件に取り組みました。
私は、イソ弁時代でしたので午前10時に浜松の警察署での接見(事前連絡、ただし予約不可)午後1時30分から事務所の事件で名古屋地裁に出頭というスケジュールでした。
浜松の警察署の接見室は一ヵ所しか無く、先客の弁護士が接見しており、長引く状況でした。
私が困り果てた顔をして担当刑事に事情を説明したところ、刑事の取調室が空いているから、そこで接見しても良いという事実上の許可が出て、遮蔽板のない普通の部屋で大量の書類を見せながら充分な打ち合わせをすることができました。
イ 不正競争防止法違反の件
私が受任していた事件ですが、顧問先の企業が生産して販売していた商品の販売差止請求の仮処分が出されて同期のN弁護士に依頼して勝訴的和解をしました。
ウ 私が第一東京弁護士会の副会長に就任したとき、イソ弁がいませんでしたので、O弁護士に多くの事件を依頼し、大変助かりました。
エ 私が東京都の特別改革本部の顧問に就任したときに、重大な案件について調査委員会を設置したときとても重要で複雑な案件でしたが、検察官出身のT弁護士に委員長就任をお願いし年末年始を返上して厳しい調査をした結果、本来の目的を達成することができました。
オ この外、事件の相手方となったり、地方(北海道から九州まで)の案件をも含めて多くの法修会弁護士の方々に大変お世話になりました。
法修会で学んだとの信頼感と絆により、良い仕事ができたことを感謝しています。
⑷ 地方の会員制ゴルフクラブでの案件と先輩弁護士
私は、あるゴルフクラブの深刻な紛争を受任しましたが、その記録を精査しているときに、法修会の大先輩であるM弁護士が同クラブの顧問弁護士や監査役に就任し、同ゴルフ場の案件に活躍していたことが分かりました。
私が受任した案件と関連はありませんが、会社の幹部からM弁護士が生前とても情熱的に取り組んでいたこと、そして、今回弁護士を委任するのも中央大学出身者の弁護士に依頼するということで白羽の矢が立ちました。
この案件も約3年間紛争が継続していましたが、裁判所からの和解勧告により、依頼者の勝訴的和解が成立する見通しです。
⑸ このように、法修会研究室という絆により、一緒に受験勉強をしなくても、先輩や後輩らとの間で法修会で学んだとの信頼関係が礎となっています。
これらのこともほんの一部であり、今後の法修会の方向性を考える意味での参考になればと思います。 以上